浄土真宗を日本に流布した蓮如上人とは
浄土真宗の開祖である親鸞聖人の教えを要約したのが3代目の覚如で、その教えを全国に広め急激に信者を増やしたのが8代目の蓮如上人です。
親鸞聖人は独自の寺院を持たず、蓮如上人も簡素な道場を建てたり、渡り歩いたりして教えを説いてまわりました。室町時代から応仁の乱を経て戦国時代に突入する不安定な社会において、蓮如上人の「善の行い」などの教えに救われた人々がたくさん法話に訪れていました。
親鸞聖人の教えが広まる室町~戦国の動乱期
応仁の乱から戦国時代へ突入し、先の見えない不安感が庶民の間には広がっていました。織田信長は最初のころは宗教を差別化せず、異国の文化も珍しがって受け入れていましたが、本願寺の力が増大化していくのをみて、これは天下を自分のものとしようとする信長にとっては脅威となると感じ、いつもの調子で潰しにかかりました。しかし、本願寺の僧兵をはじめ信者たちの命をも顧みず信長軍に刃向かって来る姿に本願寺とその信者たちの団結力のおそろしさを感じていました。簡単に焼き払って終わった比叡山延暦寺のケースと違い、本願寺の周辺の砦は簡単には越えられず、額賀一派の邪魔も入り信長は長期にわたって本願寺との攻防戦を展開しなければならなくなってしまいました。その後も、秀吉・家康を恐れさせるほどの団結力をみせたのですが、親鸞聖人によって明らかにされた浄土真宗が日本中に爆発的に広まったのは、蓮如上人が親鸞聖人の教えを説いて回った室町から戦国にかけての動乱の時代でした。
浄土真宗が他宗派から迫害を受けた時代
不安定な世の中や自分の不遇な生活を嘆き、親の葬儀代に高額な葬式代をふっかけて金儲け主義に走る寺や僧侶を嫌っていた了顕は、もうすぐ生まれてくる子供に希望を託していましたが、身籠もったまま妻が事故で死んでしまい、自暴自棄になっていました。暗闇で苦しんでいた了顕は、村人のすすめで蓮如上人の法話を聞きに行きます。そこでは、親鸞聖人が明らかにした「生きる意味」の答えや「善の勧め」の教えが示され、生きる意味を見失っていた了顕は蓮如上人の法話に引き込まれ、弟子となります。法話を聞いて救われたいと願う人々がたくさん集まるようになり、それが大した教えもなく金儲け主義に走っていた他宗派の反感を買います。教えを説いていた寺は壊され、蓮如と了顕をはじめとする弟子たちは遠く福井県の吉崎に辿り着いたのでした。その場所でも諦めず、法話をするために吉崎御坊を建立をする蓮如一派でしたが、ここでも後を追ってきた他宗派の賊たちから嫌がらせを受け、とうとう吉崎御坊も焼き払われてしまうのですが、了顕は親鸞聖人の教行信証だけは消失させまいと命と引き換えに寺から持ち出して護ったのです。
教えを全国区にした8代目真宗中興の祖
浄土真宗の教えは、親鸞聖人が大成し、3代目の覚如上人によって要約されて、8代目の蓮如上人が全国に広めました。浄土真宗ではこの3人を善知識(真実の仏教の先生)と仰ぎ、尊敬しています。そして、何が浄土真宗の正しい教えで、何が正しい信心なのかは、この3人の言葉をものさしとして判断されます。8代目となる蓮如は、親鸞から約20年後の伝道者であり、これだけ年月が経っているにもかかわらず、多くの人に親鸞聖人の教えを伝えられた人は他にはいません。蓮如が父親の跡を継いで浄土真宗本願寺派の法主になったときは、本願寺は三間四方の小さな寺でしかありませんでした。それがわずか一代で全国津々浦々に親鸞聖人の教えを流布させたため、現在では蓮如上人のことを「真宗中興の祖」とか「御再興の上人」と称えられています。上人は、3頭の馬を乗り継ぎながら北陸・関東・東北と精力的に布教を展開し、晩年には足にワラジの緒が食い込んだ跡がクッキリと残っていたと伝えられています。
宗祖親鸞上人の正しい教えを広める親鸞会
親鸞会は、1958年に発足し本願寺とは袂を分かち、浄土真宗の宗派のひとつとして活動しています。親鸞会は、現在の本願寺の教えは親鸞聖人の教えかた逸脱していると主張し、他の浄土真宗系の各宗派は教義の違いから親鸞会の方を異端であると批判しています。つまり、親鸞聖人の教えを巡って対立構図が出来上がってしまっているのです。親鸞会の設立者は、元本願寺派僧侶の高森顕徹で親鸞会代表を務めています。本部は富山県射水市にあり、関連会社には、一万年堂出版やチューリップ企画などがあります。宗祖親鸞聖人の正しい教えを広めることを唯一の目的とし、親鸞・覚如・蓮如の言葉を根拠にして、それを忠実に解説するという趣旨の法話を各地で行っています。親鸞会は、過去の時代に信仰心な無かった家系や、善を積んできていない家系は、現世に生きる者たちが善を積まなければならないと説きますが、本願寺派は他力の信心を得るために、まず自力で善を積まなければならないという説示はない」と親鸞会の主張に反論しています。
まとめ
蓮如上人が日本中に浄土真宗の教えを伝える際に、自身が書いた「御文章」が大きな役割を果たしました。上人が亡くなった後に孫の円如上人が全国を回ってその手紙を集め、編集したものが、現在目にしている御文章で、5帖80通にまとめられています。その中で特に有名なのがお葬式で読まれることが多い「白骨の御文章」です。「この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず、一生過ぎ易し」と人生の儚さが記されています。